2025.07.27 Cooperstown, New York
今日、私はもう二度と感じることはないと思っていた気持ちを味わっています。人生で三度目の『ルーキー』になったのです。最初は1992年、オリックス・ブルーウェーブに高校から指名されたとき。次は2001年、27歳でシアトル・マリナーズと契約したときに再びルーキーになりました。そして今、こうしてロッド・カルーさん、ジョージ・ブレットさん、トニー・ラルーサさんのような偉大な方々と並んでいるのを目にして、私は再びルーキーになったのだと感じています。この偉大なチームに温かく迎え入れてくださり、本当にありがとうございます。
私は、殿堂が持つ価値観をしっかり守っていけたらと思います。でも…私はもう51歳なので、イジるのは程々にしてください。(ルーキー時代に仮装する伝統があったことを指して)フーターズのユニホームをまた着る必要はないですよね。最初の2回の『ルーキー』時代は、感情のコントロールが比較的簡単でした。というのも、プロとして最高の舞台でプレーするという、明確な目標があったからです。でも今回はまったく違う感覚です。というのも、子どもの頃の私には、自分の野球が、こんな神聖な場所、その存在すら知らなかった野球の聖地へと導いてくれるなんて、想像もしていなかったからです。
人はよく、3000本安打、ゴールドグラブ賞10回、200本安打10シーズンと、私の記録で私を評価します。なかなか悪くないでしょ?けれど本当のところ、もし私に野球がなかったら『バカなやつだね』と言われていたでしょう。野球は、ただ打って、投げて、走るだけのものではありません。野球は何が大切なのかという価値のある判断をする力を育ててくれました。人生や世界に対する私の考え方を形作ってくれたのです。
子どもの頃は、ずっと野球をやっていられると思っていました。でも年齢を重ねるにつれて、45歳になっても最高の舞台でプレーし続けるには、すべてを完全に野球に捧げなければならないと気づきました。ファンの方々が大切な時間を使って試合を見に来てくれる以上、私たち選手にはその期待に応える責任があります。
10点差で勝っていようが、10点差で負けていようが関係ありません。私にとっての責務は、開幕戦からシーズン162試合目まで、同じモチベーションを持ってプレーすることでした。シーズン最終戦のアウトを取るまでは、荷物をまとめたり、道具を片付けたりすることは一切ありませんでした。毎試合、全力でファンに向き合うことがプロとしての務めだと思っていたからです。
ファンは、いつどの試合を選んで来ても、エンターテインメントを受けるべきです。野球は、私にプロフェッショナルとは何かを教えてくれました。そして、今こうしてここに立てている最大の理由が、プロとしての姿勢にあったのだと思っています。技術が他の選手より優れていたからではないです。3000本安打やシーズン262安打といった記録は、記者の皆さんに認めていただいた成果です。あ、でも一人を除いては。ちなみに、その記者の方に『ぜひうちで夕食でも』と言ったオファーは、もう期限切れです。
これらの記録を達成できたのは、何人もの記者の方々が毎日小さなディテールに注目してくれたからです。19シーズン、毎日です。私は毎日、自分の道具の手入れを欠かしませんでした。グラブのひもが緩んで失策したり、スパイクが汚れていて塁間で滑ったり、そんなことで結果を左右されたくなかったからです。オフシーズンにも、厳格なルーティンを守っていました。スプリングトレーニングが始まる頃には、すでに肩はでき上がっていて、マリナーズの名物実況リック・リズさんが「ホーリースモーク!イチローからレーザービームの返球!」と言われる準備ができていました。
小さなことを継続していけば、到達できることに限界はありません。私はアメリカに来たとき、身長5(フィート)・11(インチ=180センチ)、体重170ポンド(77キロ)しかありませんでした。アメリカに来た時、『体が細すぎて、体格の大きいメジャーリーガーには勝てない』と多くの人に言われました。初めてフィールドに走り出して行った時、正直、周囲のレベルの高さに圧倒されました。でも、準備に対する自分の信念を貫けば、たとえ自分の中にあった疑いでさえ、乗り越えられると信じていました。(後編へ続く)
「チームのためにできる最高のことは何ですか?」とよく聞かれます。私の答えは「自分に責任を持つこと」です。自分に責任を持つというのは、自分自身に応えることです。試合後に家に帰って、「なぜヒットを打てなかったのか」「なぜあの打球を捕れなかったのか」と考えたとき、正直な答えは、「相手投手がすごすぎた」「太陽が目に入った」からではありません。「自分にもっとできることがあった」からです。自分に責任を持つことで、チームメートを支え、ファンを裏切らないことにつながるのです。
子どもの頃の私の夢は、将来プロの野球選手になることでした。小学校6年生のとき、その夢について作文も書いたほどです。でも今、その作文を書き直せるとしたら、「夢」という言葉の代わりに「ゴール」という言葉を使うでしょう。夢はいつも現実的とは限らないけれど、ゴールは工夫次第で実現可能です。夢を見るのは楽しい。けれどゴールを達成することは、困難であり、挑戦でもあります。「こうなりたい」と願うだけでは、何も始まりません。本気で何かを成し遂げたいなら、それを達成するために何が必要かを、真剣に考えなければいけません。
その時の私は「プロ野球選手になるには練習と準備が大事」と書きました。その後も目標を立て続ける中で、私は「継続こそが達成の土台になる」と学びました。若い選手たちには、ぜひ夢を、大きな夢を持ってほしいと思います。でも同時に、「夢」と「目標」は違うということも知ってほしい。夢を目標に変えるには、自分にとって本当に必要なことを、正直に見つめることが不可欠です。
あの作文には「夢は地元の中日ドラゴンズでプレーすること」と書きました。当時の私は、アメリカの野球チームのことなんて何も知りませんでした。ただ、野球が好きで、できることなら一生、一番高いレベルで野球がしたいと考えていました。その思いの第一歩が実現したのは、オリックスに指名されたときです。日本でプロとして1年間フルで出場したシーズンに首位打者を獲得し、その後も毎年、獲得しました。
外から見れば、すべてが順調で、何の不安もないように映っていたかもしれません。でも実際は、なぜ自分が結果を出せているのか、心の中ではずっと理解に苦しんでいました。自分でも分からなかった何かを探していたんです。
そんな風に内面で苦しんでいるとき、歴史的な出来事が起きました。野茂英雄さんが、私が生きている中では初めて日本人としてメジャーリーガーになったのです。彼の成功は、私を含む多くの人に希望を与えました。野茂さんのおかげで、アメリカのメジャーリーグの試合は日本でもテレビで放送されるようになりました。野茂英雄さんの勇気があったからこそ、「自分も、行ったことのない世界に挑戦してみたい」と思えるようになったのです。(日本語で)野茂さん、ありがとうございました!
オリックスに感謝しています。私にMLBという新たな挑戦を許してくれたこと。そして、シアトル・マリナーズにも感謝しています。アメリカの野球において、日本人初の外野手になれると信じてくれたこと。私はそれ以来ずっと、シアトルとマリナーズに恋をしています。ありがとう、シアトル。
この名誉によって、私と契約してくれたゼネラルマネージャー、パット・ギリックさんと再会できるのも、心からうれしく思います。パットと、当時のオーナーであった山内溥さん、ハロルド・リンカーンさん、チャック・アームストロングさん、その他のチーム関係者の皆さんにも、心より感謝しています。そして現在の球団幹部であるジョン・スタントンさん、ジェリー・ディポトさん、ケビン・マルティネスさん、私をシアトルに再び戻してくれ、帰る場所を与えてくれたことを感謝しています。
エドガー、(グリフィー)ジュニア、ランディと、こうして新たなチームで肩を並べられることを光栄に思います。今日、来てくれてありがとう。
ニューヨーク・ヤンキースにも、感謝を伝えたいです。あなた方が今日ここに来たのはCC(サバシア氏)のためだと分かっています。それでもOKです。彼はあなた方の愛を受けるべき存在ですから。ヤンキースでは2年半、ピンストライプのユニホームに袖を通しました。そこで、デレク・ジーターという素晴らしいリーダーシップに触れ、球団の誇りある文化を肌で感じることができました。感謝しています。
マイアミ・マーリンズの皆さんにも。今日来てくださったデービッド・サムソンさん、マイク・ヒルさん、ありがとうございます。正直、2015年に契約のオファーをいただいたときは、あなた方のチームの名前さえ聞いたことがありませんでした。
でも、南フロリダで過ごした時間は、本当に大切な思い出です。40代半ばの私が、若くて才能にあふれたチームメートたちに囲まれて、選手としてさらに成長できました。コロラドで迎えた通算3000安打の瞬間、僕を祝うためにベンチから飛び出してきてくれたチームメートたちの姿は、一生忘れません。あの瞬間を心から祝ってくれた彼らの笑顔は、本当に純粋で、誠実でした。彼らと共に、マーリンズの一員として3000本目を打てたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。
ビジネス以上の存在でいてくれた、私の代理人たちへ。残念ながらトニー・アタナシオさんは、今日のこの日が来ることを知る前に亡くなってしまいました。でも、私をアメリカに連れてきてくれたこと、ワインの楽しみ方を教えてくれたこと、心から感謝しています。そして、42歳の私に「まだできる」と信じてくれたジョン・ボッグスさん。今も変わらぬ情熱で、私のキャリアを支えてくれています。長年の通訳であるアレン・ターナーさんとそのご家族にも、どんなチームを選んでも、ずっと支えてくれてありがとう。ジェーン、ジョシュ、チェスター、ホイットニー、そして野球殿堂の皆さん、心から感謝しています。
そしてジェフ・アイドソンさん。あなたがいなければ、この素晴らしい場所の価値を、私は本当に理解できなかったと思います。(2025年クラスの)CC(サバシア氏)、ビリー(ワグナー氏)、デーブ・パーカーさん、ディック・アレンさん、トム・ハミルトンさん、トーマス・ボズウェルさん、おめでとうございます。
私がメジャーリーグで日本人外野手としてプレーしようと決意したとき、多くの疑念があったことは皆さんも想像できると思います。でも、それはただの疑いではありませんでした。批判もあり、否定的な声もたくさんありました。ある人に「国の恥になるようなことはするな」と言われたことさえあります。
そんな中、誰よりも私を支えてくれたのは、妻の弓子です。彼女にもきっと不安や葛藤があったはずです。でも、それを私に感じさせたことは一度もありませんでした。彼女のすべてのエネルギーは、私を支え、励ますことに向けられていて、シアトル、ニューヨーク、マイアミでの19シーズン、いつも家庭をハッピーで前向きな場所にしてくれていました。
私は選手として一貫性を大事にしてきましたが、彼女はまさに私の人生で最も一貫したチームメートです。引退して間もなく、弓子と私は『デートナイト』を過ごしました。私が現役時代にはできなかったことを一緒にしました。マリナーズの試合を観客席に座って、一緒に観戦したのです。アメリカ流に、ホットドッグを食べながら。野球人生を通じて経験してきたすべての出来事の中でも、最も大切な人とホットドッグをかじったあの時間こそが、最も特別な思い出です。
アメリカの野球殿堂に入ることは、私の「目標」ではありませんでした。2001年に初めてクーパーズタウンを訪れるまで、その存在すら知りませんでした。でも、今日ここに立っているこの瞬間は、本当に夢の中のようです。ありがとう。
東スポWEB